昭和40年05月14日 夜の御理解
例え貧しくても、例え身体が弱くても心豊かな、有難い生活をさせて頂きたいと、金があるから、物があるから健康だから、心豊かに生活出来るということはない。お金は無くても健康ではなくても、教祖の神様の教えておられる、御教えを基にすれば心豊かな生活が出来る。教祖の神様が私共の心を救うて下さる、豊かな心の生活そういう豊かな心の生活の上に頂けるところの、おかげを御道でいうおかげと私は思うのです。
心豊かな例えば今日は久保山先生ところの、娘婿にあたられるかたの、おたち日でしたから、生前お好きだった物でもお供えされて、それで御霊様にお供えをして下さいというて、お参りして見えられましたんですけれど、私それをお昼神様にお届けさしてもらい、御霊様にそのことをお届けさして頂きましたら、御霊様も大変な喜びでしたけれども、私は、そういうその心ですね、今日は御霊様のおたち日だから、御霊様のお好きなものでも作って、お供えさせて頂こうと言う様な心なのです。ね。
私は昔はああ言う様なその、家庭の行事と言った様なものを非常にこう、いんぎどうだんに行われておったんです。それがこの頃はあんまりないですね。もうお正月ともなると、必ず誰々のたち日だからといってから、黄な粉もちを門内で配っていましたです、昔子供の時分。ね、その自分だけではない、その喜びをです、ま、自分の門内まで配ろうというような、そういう心を持っておった。
それがあそこから貰うとったけんせんならんと言った様に、気張ったものでもなんでもない、ただ御霊様に喜んで貰おうというその心なんですね。そういう心が神様へ通うのであり喜んで頂く。また自分自身も有難いのである。そういう生活。それではどうてもその教祖の神様の御教えを基にした生活をさせて貰わにや、心豊かに生活できません。本当に私はもう私はもう一番思いますことは、もうなぁんもいらんと思うですね、
私が今ここで心の上に助かりを頂いておる、救われておるこの状態をです、皆さんの一人ひとりに分けてあげたいと思うこの願いだけです。もう本当の事そうです。ね、あれも欲しいこれも欲しいと本当に思いません。まただこれだけは皆さんに間違いなしにお伝えできたり、差し上げることが出来たら、もうそれで私はもう本当に生きがいを感じるのであり、私自身も助かるのである。皆さんも喜んで下さるのであり、ね、
おかげで病気が治りました。おかげでこの事が成就致しましたと言う様なおかげも、さることながらです。ね、私が心の上に頂いておるところの、喜び、私の心の中に頂いておるところの安らぎ、そういうものをです、ね。私は教祖の神様の御教えを、こう行じさせて頂いてこう心の状態がおかげを頂いてきたという事を、皆さんに聞いてもろうて、皆さんもそれを、いうなら本気で行じられることにならして頂かれるところにです、教祖我を救えるということになすのです。自分の心が救われる。
もう何と言うても私は、一番のおかげはこれだと思うですね。心が救われるということ。今日はあの三番目の息子です。幹三郎が「長崎からこう雲仙ですかね、あっちのほうへ、別府のほうへこう回って、学校からの旅行に参っております。今日夕方帰って参りましてから、それぞれにお土産をこう、買うてきとるわけなんです。五百円しか持って行かれないというんですから。
それにあちらこちらから、戴いておるものあわせて五百円ですから、まあ戴いたところにゃやっぱこう、お土産を持っていかにゃならんから、お土産を、ちょっとしたものを買ってきておる。ですから家族のものには、もうほんのチョコレート一つ)と言った様な、ことですけれども、皆んなに、そのお土産を買うて来ておる中にです、猫にもお土産を買うて来たというんです。
私はそれを聞かせて頂いて、おかげ頂いてほんとに有難いなと思うたんです。もうどうして行き届いたことだろうかと、あの人は大変猫が好きなんですよね、だからあの猫にもお土産買うて来たよちいうて、私はあの信心生活とはそういう生活だと思うんですよ、大体ね、本当に心豊かな生活ね、喜びの生活猫がそりゃ喜ぶかどうか知りませんけれども、それをね例えば買うて来るのが、すでにもう助かっているんですよ。
今日ある方がお参りして見えましてから、長女がと二番目が福岡のほうへ二人、嫁に行ってるんですね、長女のほうはれっきとした、市役所へ勤めておられるご主人で、何不自由ない生活をしております、妹のほうは勤めてありますけれども、お家がお百姓さんというお家なんです。福岡の郊外なんです。それで先日福岡のほうにまいりましてから、その長女のところに参りましたら、ね、
そのう、長女が内職を始めております。もうそれこそ私が折角行っとるけれども、手も休めない、もう内職をしながらお話をする。ね、もうそりけん肩んこって肩んこってこたえんち、言いながらやっぱ内職をしておる。もうそりけん立派なうちに住んどるけれども、お掃除が行き届かない。夕方主人になる人が帰ってまいりましてから、「もうやめりゃよかよかばってん、そげなことばっかりしてから」ち、そら言いたくもあろうと私は思いました。流しに茶碗がつけたままである。ね、
「これから、こん仕事はまだ幾らもあるけんで」ち、いうてからそのやってると、もうそれっこそ、私はそれを思うてからですね、「なんか悲しゅうなりました」ち、長女がそういうがつがつした生活をしておるので。お金に不自由はしとらんかも知れんけど、「まあお母さんこげんしよると、これからこれ位したら幾らがとなる、もう思うたら金どん使われんねえ」ちいうてから。
その一生懸命内職をやっておるとこういう。しかも内職なんか、いわばせんで良いようなお家に嫁に行っておりながら、それをやっておる。ためにお掃除も出来なければ、主人に対するところの、んならほんとの奉仕も出けん。むしろ主人は「もうそげなこつばっかりしてから」ち、いうてそのお掃除も出けとらん、流しに行きゃ茶碗がいっぱいまだそのつけてあると、言った様な状態を見てから、もうそういうなかから、決して金が貯まっても、幸せにはならんですね。
私は、無精者になれということじゃありません。もう本当に勤労の尊さと、働くということの、本当に有難いということなんです。けど、有難い、有難い心が、そう、働かねばおられんと、頂かねばいかんです。ね、これからこれば出せば、こうなるけんといったようなことになったら、人間はいよいよ機械的になってですね、もう、その、味わいも、潤いも無い生活になってしまいます。
片一方のほうの、妹のほうの婿はやっぱりここへ、お参りしてまいりますもんですから、先日から御月次祭に参らせて頂いて、御造営御造営の話でいっぱい、僕もどうでんこうでん一丁おかげ頂こうと。もう薄給ですから大したことは出けんけれども、とにかくおかげ頂くぞとどうでんこうでん、お母さんもいっちょ一生懸命お願いしてくれち、いうて頼まれてくれち、言うて、そのお嫁さんになる人に、いうておる。で今日分厚いこうそのお供えを持ってから、その娘婿さんの名前があるんです。
その暇ひまにこう絵を描くことが好きなんです。それであるポスターの募集ですたいね、ポスターの図案を画いているんです。それからそのことをこう言う様なものを出しますからと、いうてからお届けがあっておりました。ところがですね、幸か不幸か誰も出し手が無かったそうですたい。図案が。その人のと一つだったそうですたい。だからその、一等、二等を決めるわけにはいかん。ね、
ところがその君のポスターの誠意を認めるというてから、その三等のところにして頂いてから、賞金を頂いてきとる。だからもう「お母さん、そのままだから御造営に充ててくれ、もう何の不浄もかかっとらんとよ」というてから、その託けてくれた、とこういうわけです。ね、・・・?二人の娘の話を、こうさせて頂いておるんですけれども、本当にそのなんていうんですかね、お供えをさせて頂いて喜んでおるという、喜べるという生活。人に喜んで貰うて喜んでおる生活。
今日は例えば御霊様のお立日だから、御霊様の好きなものでも、例えばそのお茶でも沸かさせて頂いて、それを家だけではない、例えば近所となりにでも配らせて頂いて、今日はお婆ちゃんの立日だったから、今日は誰々のお立日だったからというて、人にも喜んで貰うというそういう豊かな心ね、そいう心の状態の日々でありたい。ね、
そういう和らぎ喜ぶ心の上に、私は期せずしてです頼まずして頂けるのが、形の上のおかげである。病気をしておるなら病気が癒えるだろう、金銭に難儀しておるなら金銭のお繰り合わせも頂くだろう。それであって私は完璧な御道の信心でいう所の、おかげであるそれと是とがひとつになって。ね、私共が明けても暮れても思う事。それは皆さん方どうでもこうでも百万長者になって貰わんならん、という願いではなくてです。
百万長者に成らして頂けるだけの豊かな心、それは「教え我を救える」である。教祖が、私を救って下さったのである。教祖の御教えをです、私共が本気で行じる所に、自ずと心が豊かになってくるのです。豊かな心。豊かな信心生活。がつがつした生活ではない。ね、その教えを頂いて心が豊かに、有難いその心が勤労。それが働きの上に現れてくるという生活。今日も一日お使い回しを頂いておかげを頂きましたという生活。
私は、何と申しましても、教祖の神様の御教えを私共の信心内容としてです。まず心がすくわれなければいけません。心の救われをです、先ず願わなければいけません。形のお繰り合わせよりも、先ず形のお繰り合わせよりも、心のお繰り合わせを願わにゃいけません。心のお繰り合わせを願うためには、どうぞお繰り合わせを願います。お繰り合わせを願いますだけではなくてです、本気で教祖の神様の教えておられる、御教えを本気で行じる気にならなければおかげになりません。
どうぞお繰り合わせを頂ましてからですね、折角御道に御神縁を頂いておるのでございますから、ここで私が思うこと。本当に私の心の中に頂いておるところの喜び、私の心の中に頂いておるところの救われている状態がです、皆さんの一人ひとりの上に、分けて上がられるものであれば、分けてあげたい。そこで私が助かっておる私の喜びをです、こうして、話しに聞いてもらう。
そしてそれは私が、教祖の神様の御教えを行じておるということ。また行じることに一生懸命になっておるということ。私の心がいやがうえにもこれからどれだけ有難くなれるやら、どれだけ豊かに大きくなれるやら、まだそれこそ見当がつきません。恐らくこれより、もっともっと大きな喜びやら心の安らぎを頂くことに違いは無い。そこに期せずしてです。頼まずしてです。
和らぎ賀ぶ心の上に形の上の幸せ、形の上のおかげが頂けてくるようになる。まずどのような中にあっても、どのような場合でも、豊かな信心生活、いわゆる心の生活が先ず、営まれるような、お繰り合わせを頂かねばならない。ここんところのおかげを私は頂かせてもらう時にです、御道の信心でいうところの、もう、「今日はおかげ頂きました」。「おかげ頂きまして有難うございました」と言うてもう。
その合言葉のように言う、「おかげを頂きまして」というのはです。もういつでもいえるというのは、教えの功徳というか、教えを守らして頂くところの功徳がです、絶えず私の心の中に、安らぎがあり、喜びがある、おかげでです、「おかげを頂きました」が、もう、どのような場合にでも「おかげを頂きました」と、出てくるという、おかげを頂かねばいけんと、こう思うのですけどねえ。
それから先なんですよ、ね、神様が喜んで下さるようなおかげをいただけるのは。また、自分も、ほんとに、勿体ない、こげなおかげを頂いても良かろうかと言う様なおかげを頂けれるのは。ここんところを本気で一つ願わせてもらう、またそこんとこを頂くことを楽しみに、お参りさしていただくという信心にならなければいけないと、思うですね。
おかげを頂きました。